映画『天気の子』を今更ながら観てきた〜浮かんでくる「大人」と「子ども」像〜
大変遅ればせながら、先日『天気の子』を観てきた。
上映開始してだいぶ経ってるよな。。と思い、中央で観れるとばかり思っていたが、
現実は甘くなかった。。
まだまだ客足がすごい。。
やはり新海誠監督の集客力は凄かった。
新海誠映画の音楽の使い方
『天気の子』を観て、まず感じたのは他の日本映画との「音楽の使い方」の違いだ。
これは前作『君の名は。』を観た時にも感じた。
新海誠監督の映画では、「音楽が映画に先行する」ことが特徴だと思う。
これは他の映画の方が良いとか、新海誠映画最高!とか言いたい訳ではなく、とにかく違いがあると感じただけ。
友人と映画の話をしていて気づいた事でもあるのだが、普通映画では、
「あのシーンめちゃめちゃ良かったよね!」
と話すのが普通だと思う。
しかし新海誠監督作品においては、
「あの音楽のシーンめちゃめちゃ良かったよね!」
と変わる。音楽が映画のシーンに先行して記憶されているためだと思う。
もちろん、楽曲提供している歌手がRADWIMPSであり、非常に知名度が高いという点もあるだろう。
ただ、それを考慮してもなお新海誠監督の「映画の中で音楽を使って感動させる技術」は卓越していると感じた。
一度、映画中に流れてくる挿入歌を無しにして観てみたいと思いさえする。きっと「ん?」とかなりの違和感を覚えると思う。
映画から感じた「大人像」「子ども像」
『天気の子』で出てきた、大人と子ども(少年少女)にはそれぞれ共通点を感じた。
そしてそこにこそ、この映画のメッセージを感じ取ることができた。
『天気の子』の「大人像」
映画『天気の子』に出てくる中心的な大人には特徴があった。
それは、何かしらの歪みがあるということだ。
子どものためにタバコをやめていたにも関わらず、また吸ってしまう者。
就活において、企業に対して嘘(御社が第一志望です!)をつく者。(仕方ない・・)
悪いことと知っていながら夜の世界で仕事をする者。
何か、自分の思いに正直になれず、歪んだ行動をしている印象を受けた。
そして、それは日本の大人に言える事でもあると思う。
ただ、これは社会を生きる中ではある程度は仕方のない事だと思うし、大切な事でもあると思う。
『天気の子』の「子ども像」
一方で、この映画で描かれている「子ども」(少年少女)には一直線の心が共通して見られた。
一貫して年齢をいつわる者。
姉にどこまでもついていくという覚悟の者。
そして、銃を使い、法を犯しながらも「会いたい」という感情に一直線だった者。
この自分の感情への素直さが印象的に描かれていたように感じた。
そして、私は「子ども像」への肯定的なメッセージを強く感じた。
若者よ、素直にやりたいことをやりなさい。と。
そもそも、この『天気の子』のマーケティングを見ても、ターゲット層は明らかに若者が中心となっている。
この映画を通じて、大人の歪み(社会を生きていく中では仕方ないが)への憂いと、そんな社会のなかで自分の意志で動いてほしいという若者へのメッセージを強く感じた映画だった。